地球の民の子等
世界の若者達へ託す切なる
今は、「いじめ」という非道・卑劣な仕打ちによって前途ある若者が、自ら命を絶つという悲劇が二度と繰返されないことをただ祈るのみです。
私達が人生を卒業した後の日本の安寧と世界の平和を、大方の年配者は願っているでしょう。 「いじめ」については、一概にその要因を特定出来ないと思いますが、これまでの例からすれば、いじめた者もいじめられた者も先生や学校、時には親に対する不信感を抱いており、 そのことが「いじめ」を早期に発見し、防止出来なかった要因の一つになっていたと推察されます。
また、加害者と目される者は、将来の目標や希望を失っていることが多いと言われています。 もし、彼等に生きる目標や希望があったなら「いじめ」という行為をしなかったのではないか、という思いにも至ります。
何故子ども達は、未来を作り上げていく希望を見失い、生きていくことが出来なかったのでしょう。たまたま、その「子」を取巻く人的環境、 そこのみに問題があって「いじめ」が起きたのでしょうか。
そうでないことは明らかです。「いじめ」は全国的に起きているのですから。 「あなたの人生目標は、あなたの好きにしていいのよ。」と言いながら、親も先生達も子ども達の望みを全て叶えてあげられる程万能ではありません。
子ども達が本当に困った時、親や先生は、助けを求められる対象でなくなっているのです。どうして… 「自立」「協調」に似た標語が、教室の黒板の上に掲げられています。
ヨチヨチ歩きの幼い子が、独りで危なげなく歩けるようになるまでは、 手助けが必要です。肉体的だけではなく精神的にも。一見、体形的には大人とあまり変わらなくても、中学生の精神は未熟そのものなのです。 動物に育てられた人間の子は、四つ這いに歩いたという記録があります。
自分の判断に自信がなくなって道を見失った時、先生や親が力強く、頼りがいのある存在(権威)であればよかったのです。 教壇をなくして子ども達の目線で教えていると思うのは、大人の一方的な思い込み、きつく言えば自己満足ではないでしょうか。
例え多少作為的であっても、大人は子どもにとってのお手本であり、自信がない時、最も頼れる存在でなくてはならないのです。 頼れない大人たちを除いて、子ども達は友人関係の中にのみ拠り所を求め、それが果たせなくなった時、絶望に落とし入れられるのではないでしょうか。 支配し支配される関係は、民主主義でないと好まれないでしょうが、限られた期間は、必要とされるのではないでしょうか。
子ども達を事由の海に泳がせて自立させているというのはいかがなものでしょう。
戦後、日本の教育は、それまでの軍国主義的な教育(上意下達)を反省して、子ども達本意の教育を目指しましたが、未経験であったために机上論的な誤りがあったと思います。